DUNE libartane

MQ INTERVIEW

やっぱり私はシンプルなストリートですね

リトル・ヴェトナムと揶揄されるほど荒廃していたスラムであった、60~70年代当時のサウス・ブロンクス。その他の地域とさほど交流の無い閉塞した状況の中、誕生し育ったラップ、DJ、ブレイクダンス、そしてグラフィティのヒップホップの要素は、その後サウス・ ブロンクスから旅立ち、文化を愛するニュー ヨークの街ですくすくと育ち、世界的なムー ヴメントとなった。しかし行為自体が犯罪であるグラフィティは、いつからかその他の要素とは別の道を歩き始めた。グラフィティの世界はより破壊的且つ閉塞的であり、政治的要素、そして団結を唄うヒップホップの手元から離れていった。 しかしそのプリミティブであったグラフィ ティも、前衛的なものを求めるアートコレクターのおかげで、グラフィティの世界である地下からTWIST等、数多くの世界的なアーティストを輩出している。2年前にはMOCA において大規模な『ART IN THE STREETS』展が開催されたことも記憶に新しい。しかし地下にある彼らの世界では、アーティストになり、ビジネスを操作し、しち面倒臭いコンセプトや権利などの鎖に縛られることを嫌うグラフィティ・ライターで溢れている。アーティストになった多くのライターは現役であるハードコアなグラフィティ・ライターに多大な敬意を払っているだろう。何故なら彼らは自分の感情を満たすべく無為で危険な行為を毎夜行い、アーティストと呼ばれる人達より数多くの作品を街に落としているのだから。MQはNY出身でDMSというクルーに所属するグラフィティ・ライターである。彼もまた自由を求め、自分のタグを街中に溢れさせることに情熱を傾けた地下の住人である。その20年以上に及ぶ彼のキャリア、そしてストリートに拘る姿勢はグラフィティ界の生きる伝説である。私たちが空気を吸うように、ステッカーを貼り、タグを書き殴る、グラフィティの魔術に取り憑かれたMQ。MQこそハードコアグラフィティの真のヒーローだろう、それは彼が創り壊した数々の街中にある作品と歴史が物語っている。このインタビューは長いキャリアの中、必要以上に露出しないMQの貴重なインタビューである。しゃべるのは得意じゃない、と言う彼は気付けに昼からビールを呷りながら答えてくれた。

まず初めに、何処で生まれ育ったのか教えてください。

 

MQ(以下、M):ニューヨークのクイーンズです。クイーンズのコロナという所で幼少期を過ごしました。そこはイタリア系のマフィアのテリトリーで、SKAM DUSTはそのエリアの出身です。そこから少し離れた私の出身地はもっと色んな人種のいる所で、アジア人やドミニカンがいました。

あなたの幼い頃のことを詳しく聞かせて頂けますか?

 

M:1980年頃にグラフィティを始めました。その頃はNY中がグラフィティだらけの時代で、地下鉄にももちろんグラフィティが溢れていた時代でした。私の家族は皆が彫刻など様々な創作活動をしているアーティストで、僕はいとこと一緒に絵を描いて楽しんでいました。そんな環境の中、私は9歳か10歳の時にグラ フィティに興味を持つようになりました。色やレタリングに興味を持ったのです。しかしながらグラフィティやヒップホップは世間的にあまりいい印象がなかったので、親には知られたくなかったです。けれども自分はグラフィティにどんどん魅せられていきました。

そのころのヒップホップはどのような感じだったのですか?

 

M:ラップが世に出てきたばかりの頃で、ヒップホップの黎明期でした。私はラップも好きだったし、当時は色々起こっていることを見て楽しんでいた記憶があります。そのころはまだグラフィティにのめり込んではおらず、学校の帰りに悪戯でやっていた程度でした。

その時既にMQというタグネームだったのですか?

 

M:違います。他の名前で書いていました。単に自分の名前やイニシャルです。MQになったのは1984年のことです。

MQになった経緯はどのようなものですか?

 

M:タグを変えなければならなくなって、マンハッタン、クイーンズからMQとしました。1982年にマンハッタンへ引っ越したんです。マンハッタンのグラフィティ・シーンはよりハードでした。私はロキシークラブのすぐ近くに住んでいたので、色々なものを見ることが出来ました。

当時のニューヨークはどんな所だったのですか?

 

M:素晴らしいものでした。私も若かったし、とても面白い経験でした。

何に影響されたのですか?音楽?それともやはりストリート?

 

M:はじめはクイーンズでしたから、ある程度落ち着いていました。でも13歳か14歳の時にマンハッタンに引っ越し、全てのペースが変わったと思います。マンハッタンはシリアスな所でした。一番になろうなどと気負うことなく楽しんで過ごしていましたが、いつもクイーンズが恋しくなって戻ったりしていました。なので行ったり来たりしていましたね。その後マンハッタンのローワー・イーストサイドなどで描くようになり、マンハッタンを集中的に攻めました。

サンフランシスコへはいつ引っ越したのですか?

 

M:1997年です。NYに住んでいた90年からの5年間はヘビーに描きつづけていたのですが、それでは保たないと思い、ニューヨークから出たくなったのです。それでサンフランシスコに移りました。サンフランシスコにいた時は一日中描きつづけたりしていて何も考えず自由でした。その頃は家賃も払わず友達に世話してもらっていました。タトゥーをやっていた時もありましたが、またグラフィティの方に時間を費やすようになってやめてしまいました。

TIEとはカリフォルニアに行って会った のですよね? TIEについて少し話してもらえますか?

 

M:TIEは17才の時にニューヨークから戻って来ていました。彼はニューヨークから多くの影響を受けたようです。サンフランシスコではTWISTとMETAがTIEの先輩でした。そのころのTWISTは本当に影響力があったと思います。1994年か1995年にTWISTがニューヨークに来た時は衝撃的なインパクトを残していきました。カリフォルニアのライターでそこまで印象的な者はいなかったと思います。

TWISTのどの点が、他のライター達とは違ったのですか?

 

M:どう説明すればいいのかな、僕も知りたいです。ベーシックなタグを書いただけで 誰よりも目立っていた。私は何百のタグを書いても彼のわずかのタグを見て何が足りないのか考えたものです。とにかく彼は凄い人物 ですよ。

TIEはTWISTの紹介で会ったのですか?

 

M:違います。実は誰かにTIEをTWISTだと間違えて教えられたのです。それで、私はTWISTに会うのが嬉しくて話しかけたら、彼は相手にしてくれなかった。外に出たら、彼はバスにTHRのタグを書き、ごまかそうとして去って行きました。初めてサンフランシスコに行ったときのことです。TIEはIRAKの初期のメンバーで、いつもニューヨークの友達はすごいことになると言っていたのを覚えています。その後IRAKは大きくなり、グラフィティの世界を変えました。TIEは本当に心の優しいピースな奴でしたが、彼は殺されてしまいました。たまたまその夜、REVOKと一緒に、TIEが撃たれた現場付近を何も知らずに歩いていて、警察や救急車が止まっているのに気づいたのですが、警察とは関わりたくないので通り過ぎました。その日から二日間、TIEの行方がわからなかったので、警察に助けを求めたのですが無視されました。その後、救急車が止まっていた場所にTIEの自転車がロックされているのに気づいて、何かがあったのだと感じたのです。でもTIEはまだいます。彼は私をプッシュし てくれるし、BBBは彼のクルーです。日本にもいるし、台湾にもいる。ステッカーのやり方はTIEからの影響です。彼がニューヨークに行ったとき、サンフランシスコからニュー ヨークへ1万枚のステッカーを自分で作って送っていました。それで私はステッカーをプリントするときはいつも1万枚からはじめることにしています。BNEも彼の影響を多く受けています。

とてつもなく大きい荷船にペイントしたことについて教えてください。

 

M:TIEの為にペイントした船は1998年の9月です。BNEとFATEも一緒でした。あのスケールでは私たちが初めてでした。あれはオイルタンカーで、一晩で仕上げました。クルーなどは関係なくTIEへの哀悼の念で行い、彼のやるようなスタイルでやりました。その後すぐにBNEと初めて日本へ行きまし た。私だけが銀色でペイントしているのだと思っていましたがそうではなかった。渋谷に着いたとき、もうそこにはグラフィティが存在していたのです。日本で最初にやるのは私だと思っていたけれど、日本ではグラフィティはとっくに始まっていたのだと感じました。

TIE Shipはまだあるのですか?

 

M:どこにあるか分からないです。追跡はできますが、やったことはありません。

MQ Shipに関して詳しく聞かせてください。

 

M:2000年になる少し前のことです。自分にとって2000年になるのがとても重要なことでしたから、2000年への第一歩として大きなことをしたかったのです。TIE Shipは一晩でやりましたから、この時は一週間ぐらいで 出来ると思っていました。しかし、結局3、4ヶ月かかって仕上げることになりました。苦労したのは銀のペイントを手に入れることです。色んな店に行き、銀のペイントは小さい物で も手に入れました。小さいカンのペイントはペイントシンナーと混ぜて量を増やしたりしました。最初は15ガロンの量で描きに行っていました。一度はベビーカーに入れて押しながら行きましたね。この船はTIE Shipよりも断然大きかった。TIEへのリスペクトとして銀色だけでフィニッシュしました。結果的には2009年に『Juxtapoz Magazine』で撮影することになり、急いでアウトラインを入れて完成することになりました。船の淵から8時間もぶら下がって描いたのは大変でした。引き潮を待たないと船から揚げ場まで降りられないこともありました。この頃アーティストとして、私は心の底から何か大きなことを成し 遂げたいと思っていました。結果として、この船は完成するのに10年かかりました。

誰から影響を受けましたか?

 

M:REVSとCOST。他にも影響を受けた人はいます。キース・へリングもその一人です。ブロードウェイの彼の壁も見ました。ポップショップにも行ったことがありますね。それとHAZEにも影響を受けている。ただHAZEがグラフィティとアートをミックスしていることに関してはそれが良いことなのかどうか考えたものです。フィル・フロストにも影響を受けました。勿論TIEにも影響受けています。そしてWANTOやSECTなど日本のグラフィティからも多くの影響を受けています。彼らは私のスタイルを変える位の影響を与えてくれています。

アメリカのシーンとはどう違いますか?

 

M:アメリカのグラフィティはルールと基準があり、日本もまた違うルールがあります。普段自分がやってはいけないと思っていたことが大丈夫なんだ、と気付いたこともあります。アメリカへ戻るときは日本のスタイルをアメリカに持ち帰っています。彼らはアメリカのライターたちが分からないものも知っていると思います。多くのライターがニューヨークやロスアンジェルスのスタイルだけ見ながら、このシーンを分かっているつもりですが。それではシーンで、何が本当に起こっているのかをわかっているとは言えない。HAELが今回日本に来ていますが、彼もこの経験でそのことに気付くはずです。この世界はサイクルです。ニューヨークはIRAKがやり、カリフォ ルニアはBTMがやり、そして今はアジアです。今アジアで大きなムーヴメントが起こっているのを感じます。台湾や、おそらく韓国も。特筆すべきは日本。やはり日本ですね。今私が影響を受けているのは日本ですから。日本 には強く惹かれています。だから、今ここにいることが本当に嬉しい。日本人は私のやっ ていることを理解できる。ここはスペシャルな所だと感じています。

:グラフィティの世界を説明してください。

M:言葉にはできない。動き続けるものだと思います。ヒップホップのようにニューヨークがメインになったり、カリフォルニアがメインになったり、短い歴史の中で常に変化し続けています。実際何が起こっていたのかちゃんと知っておきたいから、私は今でも70年代や80年代の勉強をしています。ピースやミューラルなど色んなスタイルがありますが、やっぱり私はシンプルなストリートですね。

あなたにとってはグラフィティとは何ですか?

 

M:良い時間。才能が壁に表れること。とにかくそれらが私を惹き付けるのです。

TEXT AND INTERVIEW BY KAZUMI ASAMURA HAYASHI TRANSLATED BY RIBO
文・インタビュー 林香寿美 訳 リボー