DUNE libartane

KORAKRIT ARUNANONDCHAI INTERVIEW

An Artist with a Funny Name

バンコクに生まれ、ニューヨークに活動の拠点を置くマルチメディア・アーティストのコラクリット・アルナノンチャイ。彼はアートシーンにおいて突如として頭角を現し、確固たる地位を築いて世間の注目を集めた。著名なキュレーターや格式ある美術館と大規模のプロジェクトをこなし、誰もがうらやむ地位に登りつめたこの28歳は、2014年の夏にクイーンズにあるMoMAPS1にて美術館での初個展を開催した。様々な要素を詰め込んだ旅行鞄のようなこの展示は、次世代の到来を世の中に確信させた。分け隔てられた空間に散りばめられたのは、色鮮やかな紙吹雪、世俗的な意味合いと相反するように並べられた無機質な画面、陳腐なものを神秘的かつ魅惑的ものへと飛躍させる強引さ、気を狂わせられそうなテクノロジーとの関係性、黙考せざるを得ないちぐはぐな構成、異なる文化への多元的なアプローチ。困惑させられるが甚だ愉快な彼の作品の魅力は、紛れもなく人から人へと伝播している。

アルナノンチャイが知られるきっかけとなったのは、ブルックリンのCLEARING Galleryで開催した個展『Painting with History in a Names Room Filled with Men with Funny』だ。この展示は動画、絵画、そして彼自身によるパフォーマンスで構成された。そのパフォーマンスで彼は、タイ人アーティストの友人たちと共に参加し、ファッション広告に出ているようなシティーボーイたちとタチの悪い労働者の二組に扮している。その双方が持つ形式への固執、偏った個性が生む歪な関係性を、皮肉とユーモアを織り交ぜて表現した。同時期に彼は、光と音の不協和音が生み出すインスタレーションをロングアイランド・シティのSculpture Centerにて発表した。こうしてたった数ヶ月の間に、彼はアーティストの誰もがうらやむ地位に登りつめたのである。

大学の博士号過程を終了した途端に一躍有名になったアーティストたちは、羨望のまなざしと尊敬を集める一方で、上手く立ち回らなければ世間の批判や懐疑の目に晒される。ただしアルナノンチャイの場合は、MoMAのチーフ・キュレーターであるクラウス・ビーゼンバックとロンドンのSerpentine Galleryのディレクターであるハンス=ウルリッヒ・オブリスト、近年のアートシーンにおいて最も影響力のある両名が熱烈な応援団長を買って出ているために、周りのアーティストが垣間見ることすら叶わないような境遇の中を歩んでいる。彼の他にジェームズ・フランコやマリーナ・アブラモヴィッチといった著名な友人たちで自身の一個小隊を形成するビーゼンバックは、〝#inMiamiwithKrit〞とタグをつけ、2013年のマイアミ・アート・バーゼル滞在中のアルナノンチャイとの写真をインスタグラムに多数アップし、彼の信者の心をくすぐった。また〝神童〞と呼ばれるアルナノンチャイは最近オブリストによってインタビューを受け、マシュー・バーニー、アイ・ウェイ・ウェイ、ザハ・ハディドなど名だたるアーティストたちのインタビューと共に出版された。

昨年のロンドンのICA、そしてワルシャワの現代美術センターでの展示を経て、今年の6月には彼の念願であったパリのパレ・ド・トーキョーでの個展、また8月には北京のUCCAでの個展と、継続して世間を驚かせる準備をしているアルナノンチャイ。彼とはチャイナタウンにある、引っ越したばかりだという彼のアパートメントで会った。写真を見ての通り、童顔のせいでとても若く見える青年。バスケットボールのショーツに白いTシャツ、トレードマークでもあるブロンドにブリーチして肩まで伸びた髪は、カジュアルな若者の雰囲気を感じさせる。偶然にも彼の28回目の誕生日に行ったこのインタビューでは、彼が母国のタイでロックスターのように崇拝されていること、そして未だに成し得てない彼にとっての成功について語ってくれた。

あなたの経歴にはタイで生まれ、バンコクで育ち、ニューヨーク在住とあります。プロビデンスにあるロード・アイランド・スクール・オブ・デザイン卒業と書いてあるけれど、ニューヨークに移る以前にはどこかに住んでいたことはありますか?

KORAKRIT ARUNANONDCHAI(以下KA):住んでいたと言えるほど長い期間じゃないけれど、アメリカの他の都市にはいたことがあるよ。ポートランドでは夏を過ごし、そこでは自分を変えてくれる体験をした。だから携帯の番号はいまだにポートランドのままなんだ。

あなたのおじい様は外交官だと聞いていたので、色々な都市に移り住んでいたのかと思いました。

KA:母親は彼についていって色々なところに住んでいたよ。羨ましい限りだね。僕はビーチ沿いにある老人ホームで、祖父母と育ったんだ。

あなたがコロンビア大学院を選んだのは、リクリット・ティーラワニットが講義をしていたからですか?

KA:大学3年生の夏にリクリットのスタジオでインターンをやったんだけど、その夏にはリクリットはずっと不在で、一度も会えずにとても残念な思いをしたんだ。その時に彼がコロンビア大学院で教えていることを知り、知り合いになりたかったからコロンビア大学院を選んだんだ。

知り合いにはなれましたか?

KA:うん、彼は僕の師匠だよ。頻繁に連絡を取り合う良い友達、兄みたいな存在だね。タイでは他のアジアの国と同じく年功序列の習慣があるからね。

あなたはアート業界ですぐに注目を浴びましたね。大学院生の頃から注目されていたのかもしれないけど、それ以前のRISD在学中にも個展を開催していたのですか?

KA:正直に話すと、展覧会はしたんだけれど、全く注目されなかったんだ。大学卒業後にニューヨークへ移り、生活のためにDELLでグラフィック・デザイナーとして働いていたんだ。そこでデザインしたラップトップが東京のラフォーレで展示され、〝デザインをするアーティスト〞というふうに奇妙な注目を集めたんだ。Tシャツのデザインもしていたんだけれど、その会社がウェスト・ヴィレッジにギャラリーを持っていたからそこで個展を開いて、それを見たマウンテン・フォールド・ギャラリーの人が一緒にプロジェクトしようと誘ってくれることになったんだ。

既にその当時からあなたは忙しくしていたのですね。そうは言っても、コロンビア大学院を卒業した後の脚光の浴びようはやっぱり段違いに凄まじかったですか?

KA:脚光を浴びたと感じたのは、Sculpture Centerの『In-Practice』というプログラムに受かったときだね。このプログラムでは、地下スペースに展示するアートワークの企画書を送り、採用されたら展示ができるというものだったんだ。これが僕にとって初めての、心から誇りに思える美術館でのプロジェクトだったよ。大学の同級生も二人受かっていたので、とてもいい環境で制作ができたんだ。その時、同時にCLEARING Galleryでの個展の準備もしていたね。

その展覧会でさらなる脚光を浴びたのですね。

KA:美術館だから、Sculpture Centerの時の方が注目を集めたと思うんだけど。ギャラリーで展示すると他のギャラリーから注目され、アートフェアで展示すると他のアートフェアから注目される。美術館で集める注目は、それらとは別物なんだ。人に会うたび「この美術館でぜひ展覧会をやってほしい」だったり「Sculpture Centerの展示を見たよ」と言われたから、本当に重要な展覧会だったんだと思う。

あなたの作品を調べていたとき気がついたのは、いかに幾つかの境界線をぼかしているか、という点です。例えば、個人と社会との間にある境界線です。作品自体は多くの人によって構成されているにしろ、明らかにあなた個人の美意識とビジョンで成り立っています。この類の緊張は、社会レベルでも見受けられます。個展で発表した〝デニム・フォト〞では、あなたと友達たちが単に若くてクールなキッズなのか、それとも労働者、アメリカにおける移民労働者の文脈に属する人なのかというのは見分けがつきません。デニムは若者の象徴であると同時に、労働者のものでもありますし。

KA:タイでのことだけど、以前デニムのシャツを着て、流行っているデニムの専門店に行ったことがあった。そのとき、店員が僕に商品を売ってくれなかったんだ。後で分かったのは、その理由が僕を階級の違う蚤の市の労働者だと思ったからだということさ。とても奇妙だと感じたよ。リーバイスの価値は店で売っているものでも蚤の市の古着でも同じはずなのに、そこには何かが作り上げた上流階級や流行といった概念が存在する。だから、デニムを使って自分なりにイメージを作りたかったんだ。

デニムは世界中の人が知っているので、比べる基準としてとても良い素材ですね。

KA:うん。だから抽象表現主義者たちが一同に集まったかのような、一体感のある写真を作りたかったんだ。写真に写っている人は全員タイ人で、何人かはアーティストさ。

展覧会のタイトルが面白かったです。『Painting with History in a Room filled with Men with Funny Names』。第三者的な立場からチョッカイを出しているように見えました。普通なら軽蔑したり卑屈であったりするのに、あなたは挑戦的でした。

KA:ちょっとだけね。実際にビデオで『Painting with History in a Room filled with Men with Funny Names』というのがあるんだ。タイの95%は仏教徒で、自分がカトリックの男子校に通っていた時も殆どの生徒が仏教徒だったから、教室ではジレンマが多かったんだ。西洋の美術史を習っているとき、これは自分の歴史ではないなと思った。現代アートはこの西洋の美術史から出来ていて、それは自分のバックグラウンドとマッチしないと感じたんだ。タイでは、タイ人の名前が面白いっていうジョークがあるんだ。でも例えばアンディ・ウォーホルはタイ人ではないけど彼だって面白い名前だよね。ビデオの中では一つの部屋で僕が、他の部屋では男性アーティストの先人たちがペインティングをしていて、アーティストや作家である彼らも僕と同じように面白い名前の人としての役割をこなしている。違う視点から見ると、多くの人が面白い名前だってことなんだよ。〝Men with Funny Names〞は曖昧なフレーズだと思うよ。ただ僕が自分の名前、ひいてはタイ人の名前をジョークにして楽しんでいるのかもしれない。受け取り方は千差万別だし、それは習慣や文化によって変わるんだよ。

そういえば昨日の夜、兄が『ロスト』を見ていたの。そのとき私はあなたの記事を読んでいて、そこには『ロスト』からの引用があり、なんだか不思議な気分になりました。

KA:いまとりかかっている長編映画は『ロスト』と同じ構成で作っているんだ。挿入される多数のフラッシュバックシーン、そして現在と未来の関係性によって作られる構成が好きなんだ。同じようなものだけど、『インターステラー』も大好きだよ。過去に戻ってそこで何かが起き、現在でも何かが起き、未来でも何かが起きる。全てが繋がっている。シンプルで、誰もが理解できる良い構成だと思うんだ。

火は、極めて普遍的な要素です。あなたの作品では火がアジア的な武術や書道のように見えました。火とデニム、それぞれが持つ文化的なアイデンティティが反比例していたようで興味深かったです。

KA:最初は火が作る視覚的な動きを取り入れたかったんけど、それがレイヤーを破壊して別のものを生み出したんだ。僕は、火と人間の関係にとても興味がある。人間が火を使い文明を築いたことや、中国人のように物(主に紙)を火で燃やす行為とか。父親が中国人だから小さい頃からよく見ていたよ。でもそれと共にキャンプファイヤーのように皆が火を囲み、形の移りゆく炎を見つめるってのもあるよね。それも視覚的に満足を得られているんだよ。火は儀式において人を抽象的なものへ惹きつけるプロセスとしてだったり、未知のものとの関係性を齎してくれる現象として我々の周りに存在する。物を燃やすという概念において、燃やされたものは空想の中や未知の世界へと飛び立つと信じられているんだ。火には色々な意味があるけれど、どれも明確なものなんだ。それを表現したかった。

タイのテレビ番組〝Thailand’s Got Talent〞の出場者のクリップを使っていましたよね?上手く挿入されていましたけど、何に惹かれて使ったのですか?

KA:その部分に、タイの悪いところが集約されていたからだよ。それを自分の作品と対話させたかったんだ。タイはセックス観光大国なのに、やらせ出演したゴーゴーダンサーは国中の非難を浴びたんだ。タイではこういった保守的な意見が一般的なんだ。貧しくて教育を受けていない田舎から出てきた女性にとって、バンコクで一般的な仕事に就くことは難しい。ゴーゴーダンサーとして働くのは社会的現実であり、その一人である彼女が非難の的となったんだ。そこから何が芸術か?という論争になるのが不思議だったんだ。人々は何の疑いもなくテレビが作り出す状況を現実と受け入れている。タイの視聴者や仏教徒のアーティストたちは、彼女のパフォーマンスを芸術作品ではないと決めつけている。何故なら、彼らは素晴らしい芸術作品は西洋美術から来るものだと信じているからさ。自分は西洋美術のフィールドでアーティストとして活動しているので、この件について興味があったから徹底的に掘り下げてみたんだ。彼女が披露したボディ・ペインティングはイヴ・クラインに関連しているというアイディアも好きだったし。多くの世代が何度も自分たちに合わせ解釈を変えてきたことによって、そういった考え方がなんらかの形でタイの社会的現実に根づいてしまったんだと思う。それをどうにか自分が使って現代美術として再表現したかったんだ。

タイ国内ではアーティストとして有名なのですか?

KA:タイ国内で?この一年の間にタイで個展を開催しようと計画しているよ。僕はどうだろ、ある程度は知られていると思うけど。アーティストとしてアメリカで活躍しているタイ人にはリクリット、自分、その他には数人しかいないからね。アジア圏の人なら分かると思うけれど、海外で自国の人間が何かすると、その国では大々的に取り上げられるんだよ。「MoMA PS1なんてすごい!」とか。面倒な時もあるけど、認められたっていうことなんだよね。タイではまず西洋文化圏で認められることが大事だからね。

あっという間にこの業界で成功を治めるというのは、なかなか出来ることではありません。

KA:それはきっと何を成功と思うかによるよ。

多くの人があなたの作品を褒め称えたことは驚きでしたか?

KA:そうだね、かなり驚いているよ。宝くじにあたった気分ってわけじゃないけど、ただただ嬉しいよ。パレ・ド・トーキョーやPS1といった場所ではずっと個展をしたいと思っていたので、本当に嬉しかった。チャンスは偶然にやってくるわけではないからね。作業を止めることなく、プロジェクトに関わる人たちとの会話を続けていくのが大切なんだ。それが自然の流れだと思うよ。沢山のチャンスを貰えて本当に嬉しいよ。今年はもっと沢山のプロジェクトがあるし、自分の作品も様々な進化が必要になる年だと思う。自分にとってアーティストとして成功するっていうことは、美術史にその名前を刻むということ。その点ではリクリットやピエール・ユイグはすでに成功したアーティストだと思う。自分がそこに辿り着くには10年はかかる気がするよ。今の自分の立ち位置に満足をしている。でも、もっとやらなくてはいけないことが沢山あるんだ。アーティストにとっての本当の成功は長い時を経て見極めることだと思う。「ここで個展をした」「あの美術館で個展をした」という瞬間ではなくてね。

最後に、あなたの名前の意味は何ですか?

KA:暖かなオーラ、太陽の周りの暖かい光、みたいな意味だよ。

素敵な名前ですね。

TEXT AND INTERVIEW BY CAROL LEE
PORTRAIT BY AKIMOTO FUKUDA
TRANSLATED BY TOMOKO OKAMOTO