DUNE libartane

KEIZO KITAJIMA INTERVIEW

1991年。それは、世に遍く広がる総ての事物を飲み込んだ、激動の渦。

今回弊誌で扱わせていただくものは中期の作品と呼べるかと思いますが、それ以前のスナップ的な写真と比べて明らかな違いが見受けられます。

KEIZO KITAJIMA(以下K):ちょっと複雑なんですよね、そこが。もともと、人を撮るっていうのは基本的な姿勢だったんですけど。

それは常に変わらないですか?

K:変わらないですね。今は風景を中心にやってますけど。私の『ニューヨーク』って写真集って見たことありますか?隠し撮りとか、通りすがりとか、なんていうんだろ、面接ポー トレイトみたいなのじゃなくて、歩きながら人をスナップしたかったんです。だから、声を掛けて立ち止まって撮るポートレイトみたいなことはあまりなかった。『USSR 1991』のような撮り方って、あまり好きじゃなかったんですよ。

このときはそうだったんですね。

K:ずっとですね。ちょっと見て欲しいんですが、こんな写真集があるんですよ(『A.D. 1991 』)。これも変な本なんですけど、人のこういうスナップ(街中で目線のない顔に寄ったものが中心)と、こういう風景(引きで捉えられたビル群。どの都市なのか判別困難)とが混在して、ニューヨークだったり、ソウルだったり、東京だったり。まあ、世界中おんなじような風景ばかりですよね。91年に作ったこの本は、私にとって過渡的な本って言ってもいいと思うんです。でね、〝1991〞って文字がつく本が2冊あるわけです。

確かにそうですね。

K:この1991年って色んな意味で、自分にとっても世の中的にも、節目にあたると思うんですね。ソ連が崩 壊して、一応冷戦が終結したことになった。私個人にとっては、ハンディカメラでの都市のスナップを全くやめた年だったんです。それから肖像のシリーズと風景のシリーズというふうに行くわけですが、この『A.D. 1991』は1991年以前の写真、80年代後半に撮影した写真なんですよね。

ソ連に行かれる前に作ったということですか?

K:ソ連に通いながら作ったんですよね。つまり、自分の写真の撮り方の大きな変化と、目の前でソ連が崩壊したっていうのが重なったわけです。考えてみると、私のストリート・スナップはコザとか新宿から始まって、ニューヨーク、西ベルリンに住んで東側を撮ってといった感じで、じつは冷戦時代にバイアスの強くかかった場所が中心になっていたんです。例えば『タクシードライバー』という映画はニューヨークが舞台ですが、主人公はベトナム帰還兵で精神的なダメージを受けてる人でした。

『タクシードライバー』好きですか?

K:ええ、当時はね。それでだから、東西冷戦の中で、こう、テンションの高い街に行ってたような気がするんですよね。

それは無意識で、ということですか?

K:後から振り返ると、ってことですね。

当時は「おもしろそうだなぁ」くらいの感じで行ってたんですか?

K:そうそう。多分、〝面白い場所と出会う〞っていうのは写真家にとっても幸運なことですよね。

本当にそうですね、当て勘というか。

K:勘と運。そういうのがあって、初めてスナップショットって面白くなるなって思うんですよ。繰り返しになりますが、都市のスナップやめるのと、ソ連の崩壊が自分の中で重なったんです。

ハッキリ意識して変えたというよりは、なんとなく飽きて変えたという感じなんでしょうか?

K:やっぱり、スナップっていうのが面白くなくなってきた。やっぱりコザとかニューヨークとか、こう、ゾクゾクするような感じってあるんですよ、撮ってて。初めてコザに行って、街をフラッと歩き始めるじゃないですか。「ここで写真を撮る」って思った瞬間に、なんか背中がゾクッとするようなね、感じってあって。そういう状態がだんだん減ってきたっていうのかな。

強引な言い方かもしれませんが、一種の初期衝動だったのでしょうか。

K:そうですね…飽きたってのもあるし…あのですね、街を歩きながらすれ違いざまや出会い頭にシャッターを押すような、歩きながらスナップしていく形で人を写すっていうのは、人だけを写したいわけじゃないんですよね。それだったら声を掛けて、その人のポートレイトに向かえばいい。そうじゃなくて、街の中にいる人を撮りたい。街と人を両方混ぜこぜに撮りたいって感じなんです。私にとって面白い街っていうのは、街も人もお互いに影響し合う。合わせ鏡のように映し合う。どっかで、その街にいる喜びみたいなのものをその人たちは持ってたりしてね。なんかこう、人の気持ち?まあ欲望と言ってもいいんですけど、それを街が映しだすし、人も雰囲気も街によって作られるし、そこに行くだけで人は表情も変わってくるしね。そうやって街の全体的な姿を撮りたいから、声を掛けてポートレイトだけ撮るっていうのではないんですよね。

それらを全て、そこにある雰囲気ごと写したかったということですね。

K:街の中から珍しい人や変わった人を取り出すのではなくて、その街を歩きながら分け入って行く、馴染んで行く感じで撮っていました。

その感覚が北島さんをゾクゾクさせていたと。

K:うん。で、そういう街との幸福な出会いが減ってきたってことかもしれない。それは例えば、〝この時 代の東京〞とか〝あのときのニューヨーク〞とかね。ニューヨークだって、60年代と70年代、多分5年周期くらいで大きく変わってると思うけれども、私が撮った頃と今のニューヨークとではだいぶ違いますよ。

間違いないです。

K:あの頃のあの街と、あの人々だったんだなあ、と思うんですよね。今はもうありません。

自分もその中の一部だったということですね。今〝喜び〞という言葉が出ましたが、それをソ連でも感じましたか?

K:もともと朝日新聞の依頼で撮らないかと言われて撮ったんですけど…

「1年かけて撮ってくれ」とですか?

K:そうです。もともとソ連には行きたかったんですよ。東ヨーロッパを撮るために、西ベルリンに住んでた83、4年にね。アルバニアはちょっ と入れなかったけど、あとの国は全部周りました。モスクワも行きた かったんだけど、インツーリスト(ロシア全土およびソ連地域をカバーできる日本唯一のツアーオペレーター)が払えないぐらい高すぎるのと、フィルムの持ち込み量など、リスクが高すぎた。東側を旅行していて、大量のフィルムを持って国境を越えるときが一番の恐怖でした。

でも、行ったら面白いっていう感じはあったんですか?

K:そりゃ行ってみたかったですよ。一年半くらい東ヨーロッパをブラブラしていたんですが、その頃から、なんとなくスナップ写真に疑問を感じ始めたっていうのかな。まあそんな頃で、同時にスタジオで撮影するポートレイトのシリーズの実験を始めていました。で、ソ連をどういうふうに撮ろうかなって、あらためて考えたんです。全く自由に撮ってくれって言われていたので。

『アサヒグラフ』の連載ですね。

K:そうです。撮影にあたっては、やっぱりスナップワークでとるのはつまらないから、肖像写真を撮ろうと思ったんです。とにかくいろんな人に声を掛けて、その姿を撮影させてもらうってことだけをやってみようと思ったんですよね。だから、とにかく人、人の肖像だけに向かおうって感じですよね。

見知らぬソ連の地でいきなり「すいません」と声をかけ続けたんですね。一人あたりどれほどの時間をかけたのでしょうか?

K:人によりますけど…どうなんでしょうね…そうですねやっぱり…最低(フィルム36枚撮り)一本半くらいは撮りますね。多い時は10本撮るときもあるし。まあ2、3枚ってことはなかったですね。

作品を拝見して、結構皆さん撮らせてくれるもんなんだと感じました。確率でいうと何%くらい平気だったんでしょうか。

K:ちょっとわかんないけど、半分以上の人はオッケーしてくれたと思う。

もっと抵抗がありそうなもんです。勝手なイメージですが。

K:でもさあ、昔の、例えば70年代なんて街で勝手に撮ったら「ありがとう」とか言われた時代だよ?わかんないでしょ。やっぱり物珍しいっていうか、写真って高級なものだったから。肖像権がうるさくなったのは、日本だと 80年代後半くらいからじゃないですか。

写真が選ばれた人しか撮れなかった時代ですね。

K:高級カメラが社会的ステータスにもなった時代。お父さんがボーナスと月賦で買って、理想的な家族の肖像を撮った時代ですね。だから、私みたいな者がギリギリ写真始められるのって70年代以降だし、50年代だったら無理でしょ、金持ちしか。だから旦那芸しかなかったわけじゃない。それが森山さんとか中平さんがカメラ持っちゃうわけですから(笑)。

単純に、ある程度までの時期に写真を撮ってた人はお金持ちだったと。

K:少なくとも、特権的な一部の人しかできないことだったわけでしょう。もちろん、被写体にされるのは特権的じゃない人たちですよね。で、ソ連の話に戻すと、ソ連を撮りながら、驚いたわけです。〝ソ連がなくなる〞ということに。各共和国はそれぞれ独立しようとしてるし、バルト3国のように独立直後のところもあって、みんなワルシャワ軍、つまりソ連軍がどう動くのか心配してたら、夏が過ぎてソ連がなくなっちゃった。15共和国をまわったんですが、いろんな人を撮ったり見たりしてると、7年以上続いた共産主義国家体制中で、若い人はまだいいじゃないですか。これから「ジーパン欲しい」とかさ…でも人生の大半を過ごした老人にとっては大変な出来事ですよね。社会体制だけじゃなくて、価値観も根底から変わるわけですから。その中で生きて、死んだ人がいるっていうのに。アレクサンドル・ソルジェニーツィンによれば〝収容所群島〞ですよね。親族で密告し合い、いろんな説があるけど200万人以上が粛正されたという話もある。そういう体制を生き抜いて来た人にとって、これから自由主義になるっていわれても、ひどい話でしかないでしょ。80年代の終わり頃から東欧の自由化とかはあったけど、まさか本体がっていう、信じがたかったですよ。でもそんな状態のなかで、誇りをもって私の撮影依頼を承諾してくれた人たちがいたわけです。そういう人たちの写真で、すぐに写真集を作りたくないなあと思いました。15年とか20年とか経って、ソ連やあの人たちが忘れられそうになった時に、本が出来ればいいなって写真を撮りながら思っていたんですよね。そしたら、20年以 上たってニック夫妻(Nick HaymesとLina Kutsovskaya、Little Big Man主催者)が声をかけてくれて『USSR 1991』が出来たわけです。

一冊の写真集になるまで、だいぶ時間が経っていますね。

K:ソ連だけじゃなくて、コザの写真なんて30年経ってから、昨年初めて本になりました。そういえば、沖縄のってストロボ使ってるじゃないですか。で、ニューヨークの時ってストロボって半々ぐらいなんですよ。東ヨーロッパではストロボやめてます。それには理由があってね。最初はストロボに賭けてみたっていうか、あのprovokeの後で、結局ああいう〝アレ・ブレ・ボケ〞も一つの美的な判断として消費されてしまうというね。破壊的行為だったはずが…

一つの型になってしまう。

K:そう、形になってっちゃうような中で、当時は自己表現というものをどうやって切り拓いていくかが難題だったわけですよね。ワークショッ プ写真学校の森山さんのところに行った時に、やっぱりウォーホルと ウィジーっていうのがね、当時の氏が私たちに薦めた作家で。ウィジーは事件写真屋で、ストロボ一発で撮る。ストロボの光って、人工の、つまり機械の光じゃないですか。だから、撮る人の意図と関係なくオールオーバーに写しだすわけですよね。横のゴミも、撮りたかった花とおんなじに写し出しちゃうわけですよ。そのマシーンの客観性みたいなものに賭けてた部分があった。ストロボの光っていうのが、一つの写真の可能性として考えられたような時に、私は写真を始めたわけです。まあ、そのうちストロボっていうのがなんでも同じに写るんで、これも予定調和の最たるものだと思うわけです。ストロボなくたって同じ事が出来なきゃおかしいでしょっていうんで、それでまあ東ヨーロッパの時点ではストロボはもうやめたんですよね。そんな調子でだらだら変化していくから、これで写真集を作ろうっていう瞬間が無かったんですよ。

そっちで忙しいってことですね(笑)。

K:そういうこと(笑)。

ニックたちとはどのような経緯で本を作ることになったのですか?

K:最初に会ったのは、ニューヨークでやるグループ展に、私の昔の東京の写真を展示したいっていう依頼で来た時でね。

彼らがキュレーションをしていたんですね。

K:そうです。ここ(北島さんの事務所、photographers’ gallery)で会ってね、何回か話していて、なんか他の写真ないのとか言われたので、手元にあったソ連のプリントを見せたんです。そしたら、しばらくたってソ連の本を作りたいってメールが来たんです。

そうやってこの本ができたんですね。

K:この本は、Little Big Manが出版したなかでも、すごいお金のかかった、力の入った本ですよね。リナのエディトリアル・デザインも凄い。そこにはたぶん、彼女の個人的な思い入れもあったのかもしれないと思っています。80年代の自由化する前のソ連から何も持たずに、家族であちこちの国を転々として、最終的にニューヨークに辿り着いたって言ってましたから。リナはソ連時代にガッチリ美術の勉強をしたみたいです。もちろん、今はアメリカでもトップクラスのアートディレクターになってます。まあ、偶然や必然、色んな事が重なってこの本が出来たんだって思ってます。

お話しを聞くと、この本の重みが一層増しますね。

K:そうですね。そして結果的に、『A.D.1991』と『USSR1991』ができたわけです。

本当にいろんなところへ行かれていますよね。あくまで「街を撮りたい」という一心で世界を周ったのですか?

K:街っていうか…〝界隈〞?あるじゃないですか、界隈って。〝その界隈〞、〝二丁目界隈〞とか〝イースト・ビレッジ界隈〞とかね。新宿西口じゃなくて、二丁目界隈。ミッドタウンじゃなくて、イーストビレッジ界隈。西ベルリンだとクロイツベルクとか。

そういった意味では『USSR 1991』は〝界隈〞ではないですね。

K:まったく全然違いますね。これはだから、私にとって〝界隈〞以後の写真なわけです。〝界隈〞の写真家だった頃は、やっぱり森山先生経由で知った、ウィリアム・クラインの『New York』はいつも頭のどっかにあったと思いますね。やっぱり、傑作だと思います。

確かに、どちらもニューヨークを撮ってから世界を周り始めています。どのような点に、ご自身におけるクラインの影響を感じますか?

K:あのね、やっぱり街撮るの面白いって、撮りたいなって思ったのはクラインの本を見てからですよね。例えばウォーカー・エヴァンスの地下鉄の乗客の写真、あれ見ても街を撮りたいとは思わないですよね。サ ブウェイ・ポートレイトに感動する人は、やっぱり人を撮ると思うんです。〝Many Are Called〞って〝全ての人を讃える〞だから、一人一人を讃えているわけじゃない?でもクラインは人を撮ってるんじゃなくて、街そのものを撮っている。だって人なんて顔半分で切れてるし。ボケててもいいし、ブレててもいい、シル エットでもいい。影形から人だって判別がつけばそれで十分。個人じゃなくて、有り体に言えば、群衆を撮ってるわけでしょ。商品記号だらけのニューヨーク。クラインは、それをただ撮るんじゃなくて、そうした都市景観を換骨奪胎して、バラバラに解体するような撮り方をしている。でも、クラインの『New York』は、1950年代後半のニューヨークの姿なのであって、そこにクラインとニューヨークとの特別な出会いがあった。だから私がクラインのまねをしても無意味なわけでしょう。provokeは、確かにクラインの影響もどこかで受けていると思う。ただ、provoke、とくに中平さんと森山さんにとってアレ・ブレ・ボケは、日本の68年的な抵抗の身振りだったわけです。その身振りが有効性を見失った後で、私は写真を始めたわけです。

それは悩みますよね…

K:写真を始めるにあたって、森山さんと知り合うことが出来て、同時に森山さんの周りの先人たちやその時代の空気の中に入っていくから、気づかないうちに、自分が写真史的な文脈に立っているわけです。まあ、それに縛られているとも言えますが。いずれにせよ、たった一人で写真を始めたんじゃないって思いますね。ストロボの問題も、リンクしていたわけです。

なるほど。そういった経緯で80年代に嫌気が差したストロボが、ここではまた登場しています。

K:『USSR 1991』では、そういう意味で禁じ手を使ったわけですよね。とにかく人を正面から了解をもらって撮れば、何かは…古い言葉だけど〝写ってる〞んじゃないかと。集まったときにね。何が見えてくるかな、って期待したわけです。空振りはいやだったし、許されもしなかった。

例えばですが、今ソ連に行きたいと思いますか?今はもうないですから、ロシア、そして撮影した場所に。

K:モスクワとかレニングラードとかには行きたいと思わないけれども、中央アジアや沿海州、サハリンとか、あとあれだね、クリル諸島。北方四島行きたいね。択捉富士とか見たいなあ。

INTERVIEW BY SOUSHI MATSUKURA