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JONAS MEKAS INTERVIEW

私の仕事は好きとか嫌いとかいう問題ではなく、私がやるべきこと

フィルムメーカー、詩人、そしてアーティストであるリトアニア系アメリカ人ジョナス・メカスの最新著作『A Dance With Fred Astaire』を読むと、『不思議の国のアリス』のウサギの巣穴に転がり落ちるような感覚になる。時系列順には進まないこの本の物語は、60年間に及ぶニューヨークのアバンギャルドフィルム界の核心たる出来事の数々が記されている。これまでにもこういったジャンルの本は多々出版されているが、どれもいわば歴史本の役割を果たすもので、骨組みを理解させるに留まるものが多い。しかしながら、メカスの本はその骨組みに色をつけ、体験させてくれるような一冊となっている。マンハッタンの60年代、そして華やかな社交界の細かな描写に加え、世界的なヒーローたちが生き抜いた葛藤をも描かれている。アンディ・ウォーホールやオノ・ヨーコ、ジャッキー・ケネディなど世代のアイコンたちは、世の中のズレが見えてしまう正義を貫こうとしただけだが、たまたま特異な魂を持つ人たちであったと解釈されている。そして、『Anthology Film Archives』を1970年に設立した彼は、アートに人生を捧げることによって得られる崇高な精神性を垣間見せてくれる。95歳の彼は、あたかも長年の知り合いかのようにゆるく、そして親密に話す特徴がある。ブルックリンにある彼のアパートを訪ねたあの日は、大雨が降る3月のとあるどんよりした午後だった。そこではアーカイブで溢れ返った棚やテーブルが彼を囲んでいた。彼の娘のウーナが飼っていたという細くて洗練されたパイパイという黒猫が私たちの間のテーブルに心地良さそうに腰をおろし、私たちは話し始めた。ウィットに富み、頭の回転が速いメカスは目で笑い、ワクワクしながら話す。ニューヨークの鬼才たちを虜にした理由がすんなり理解できた。

『A Dance With Fred Astaire』はとても面白いです。この本はどのようにして形になったのですか。

JONAS MEKAS(以下J):たまに友達と食事したりお酒を飲んでいたりすると、その時の会話が昔の思い出を呼び起こすことがあって、それを記録し始めたのです。10年から15年かけて貯まってきて、ある時ふと、本にしようと思いました。一種の自伝です。

60年代と70年代のアバンギャルド・ニューヨークの世界に君臨していた大御所たちが多々登場する上、あまり公には知られていないキャラクターたちも紹介されていますね。新しい発見ばかりで、実に華麗なストーリーに感じます。

J:私は様々な顔を持つ人として生きてきました。一つのことに落ち着くことは難しいようで、根っからの放浪者みたいです。右から引っ張られたと感じた次の瞬間には左から引っ張られるように感じてしまって。多分計画を立てずに生きているからだと思うのですが。自分が必要とされているところに行く兆候があります。

あなたの探究心はどこから来たのですか。

J:そこまで探究心はないですよ。先ほど述べたように、必要とされていると感じたところに行くだけなのです。他人がやりたがらない、もしくはやり方が分からないことで、私にしかできないことをやるのです。私が始めたほとんどのプロジェクトたち、例えば『Film Culture』、『Film-Makers’ Coopertive』、そして『Village Voice』のフィルム欄は必要なものだったのにも関わらず、誰もやらなかったから私がつくったのです。それ以外にもジャッキー・ケネディが自分の子供にフィルムを教える人を探していて、私がたまたまその近くにいた。それらはなんの計画も努力もなく起きたことです。

本の中で、あなたは今までアートやフィルムの中で見たことないものに出会うと気持ちが高揚すると書いています。

J:そうなんです。あのワクワクはすごいものです。何か特殊で異質なものを見ると何かから解放されたように嬉しくなります。別にアート作品や詩、映像じゃなくてもいいのです。ピーター・ビアードのような人に出会ったときも同じ気持ちでした。彼に初めて会ったとき、彼のユニークさや溌剌としたエネルギー、そして自然へのこだわりに惹かれました。初めて出会った1962年か1963年以降ずっと友達です。なので、エネルギーを持っているものだったら何でもいいのです。ある特殊なエネルギーは伝播するのです。少なくとも私にとっては、アートが持つ美しいエネルギーによって伝染するのと同じです。

本の中ではバーバラ・ルービンとの友情も鮮明に現れていますね。

J:バーバラは素晴らしい人でした。ライプツィヒのスペクター・ブックス社がこの夏、彼女が私に宛てた手紙集を出版するみたいです。彼女の手紙は同じエネルギーを発していると思います。彼女も感染的な魅力をもつ人でした。

あの時代のニューヨークに充満していたエネルギーはどのようなものでしたか。

J:1950年代を終えて1960年代の幕が開いたばかりのあの時は、旧態依然としたアートや生活の在り方が廃れ、演劇、音楽を始めとする全てのアートフォームの新しい風が吹き込まれていた時代でした。全てが変貌を遂げ始めたのです。すごくエネルギッシュな時代の最中にバーバラ・ルービンは登場したのです。ニューヨーク史で最も活発だった時代に、問題を起こしがちのティーンエイジャーだった彼女は瞬く間に居場所を見つけ、様々な人たちとつながり、大家族の重要人物となりました。ジャック・スミスからウォーホール、ベルベット・アンダーグラウンドからボブ・ディランまで、多ジャンルの人たちと関連性を持っています。彼らはお世辞にも、接するのが簡単な人たちではなかったにも関わらず。しかし彼女はどうやったのか、みんなに受け入れられ、みんなも彼女を受け入れていたのです。

昔あなたがやった「成し遂げられなければならなかったこと」のひとつに、前衛的な映画を支援するコミュニティーを支えるための資金や資源を見つけたことがあります。

J:その通りです、それは私の役目のひとつでした。私は財務大臣、防衛大臣、そして布教大臣を兼任していました(笑)。

本の中でヒロ・ヤマガタやジェローム・ヒルのことも記されていますが、彼らは様々なあなたのプロジェクトに出資していますよね。

J:ヒロ・ヤマガタは90年代後半に登場しましたが、彼のことはアレン・ギンズバーグに紹介しました。ヒロに出会ったとき、彼はアメリカのアート界の主要人物のポートレイトを描きたいと言っていたのです。結局実行したのかは分かりませんが、「アレン・ギンズバーグに会いたい!」と言っていたので「じゃあ紹介するよ。今日たまたまニューヨーク大学のギャラリーで彼の写真展のオープニングがあるから、ちょうど僕も行かなきゃいけないんだ」と言って連れて行きました。まだレセプションが始まる前の時間帯で、アレンはまだ写真を展示している最中でした。彼らを紹介してから僕は用事があったのでほったらかしてその場を去ったんです。数日後にアレンと道でばったり会い「ヤマガタと話できた?」と聞いたら、「彼は一体何者?写真展を丸ごと買ってくれたんだ」と言って笑っていました。彼の写真を1枚残らず買ったみたいで。その後ヒロはアレンの良き支援者になったようで、のちにアレンがヒロの本のイントロダクションを書くに至りました。

最近、ブランドが若いアーティストたちのパトロンになることが多くなってきましたね。

J:それが現在の兆候ですね。しかし、50年代はそんなマーケットがなかったのです。特に映像やフィルムのアーティストたちにとっては。自分の作品で生活を担うことなどできなかったのです。そんな伝統はまだなかったのです。現在の映像アーティストたちは自分の作品を売ることも出来れば、ギャラリーに展示することもできます。そしてもちろん、アートコレクションというビジネスシーンも存在します。60年代初期でも、まだそんなシステムは成立しておらず、アンディ・ウォーホールなどのビッグネームですら、私が彼にあったときはまだ無名でしたし、大きな展示はしたことがない状態でした。

アートの世界にブランドが首を突っ込んでいる今のムーブメントはポジティブなことだと思いますか?ネガティブだと思いますか?

J:私の目から見ると、アート自体にはネガティブな影響を及ぼしているように思います。昔はアートを支える財団などなかったのです。グッゲンハイムやフォードなどの個人事業もそうですし、市や州などの公共財団も皆無で、伝統も当然ながら存在しなかったです。初期のアーティストとしてのフィルムメーカーが登場し始めたのは70年代に入ってからでした。80年代に入ってから出会ったフィルムメーカーの一人であるポール・シャリツに「今は次の映像を撮っているの?」と聞いたときに「いや、応募したんだけど資金が下りなかったから」という回答が返ってきたのを覚えています。そして、スポンサーを頼るということが始まったのです。新しいホイットニー美術館ができたばかりの頃行ったのですが、大きな展示場所がいくつかありますよね。8丁目の小さなスペースにあった昔のホイットニーはそれぞれの部屋が小さくて、まるで家のように感じました。ですから、友達に「新しいホイットニー見に行って来なよ。大きなアートのために作られている美術館みたいだ」と言ったのを覚えています。ホイットニー・ビエンナーレのときに行って、大規模な作品ばかり展示されているのが分かりました。しかし小さくて親密な作品は展示されていなかったのです。キュレーターの一人になぜなのか尋ねると、「上の階に小さな展示スペースがあるので、そちらに展示してもよかったのですが、小さな作品が見つからなかったのです。」と言われました。僕は、屋根裏部屋のクローゼットの中に作品をしまって置かれたいアーティストなんていないのに、と思いましたけどね。『The Shed』については聞きましたか?ダンスや音楽用の一番大きな展示スペースなのですが。形や大きさを変えられる変幻自在のスペースで、来年完成するみたいで、とても巨大です。大きなアートの空間は多々造られているようですが、小さくてパーソナルな作品はどうなってしまうのでしょう。最近のアートは空港、ホテルや銀行のロビーの飾りとして活用されることが多いみたいですね。昔は教会が代表的な展示スペースの1つで、教会には小さな空間が多々あるので、天井や壁を覆わない大きさの作品を一緒に展示できたのです。

なるほど、それはそれでとても骨が折れる作業でしょうね…

J:その話を遮ってしまいますが、私はMoMAでも似たことが起こるのを恐れていたんです。先週ちょうどステファン・ショアの素晴らしい写真展を見てきました。今まで見た中で最大の写真展でした。彼らは部屋の中に部屋、美術館の中に美術館を建てたようでした。新しい展示スペースのいくつかは大きかったですが、ホイットニーほどではありませんでした。幸いなことに映像の世界では、大きな劇場は消滅しました。徐々に小さくなっていっています。70席だったり、100席を切るようになりました。そしてインターネット世界の現在では、ハガキを送るなど、パーソナルなコンタクトをとることが難しくなっています。ですから映画やテクノロジー、劇場スペースなどにどのように影響するかは予想がつきません。

60年代のアバンギャルドシネマの最大の障害物は〝検閲〞だったと本にありますが。

J:検閲によって公での発表がなかなかできなかったという意味ですね。『Film-Makers’ Cooperative』の設立により、自分たちの場所をつくることができました。主に大学や短大を通してでしたが。アメリカ中にある3000席から4000席の大きな劇場で公開することは結局できませんでした。シャーリー・クラークの映像のようにわりと広い観客層に向けて造られた作品でも、10箇所から20箇所でのみ上映されました。そして、費用が非常に高額でした。シャーリー・クラークが『The Connection』を公開したのは確か1962年だったと思いますが、1~2年程度上映されてから彼女にどうだったか聞いたんです。20万ドルほどの制作費だったみたいなんですが、「儲かったの?」と聞いてみたところ、「儲かったかって?ディストリビューターから請求書しか貰ってないわよ」と言われました。営業代、ポスター代に加えて細かな費用がかさんで数千ドルの赤字になってしまったみたいでした。

現代のアバンギャルドシネマの問題点はどういったところでしょうか?

J:誰がどこで、どのような行動をしているのか知るのは非常に難しいです。最も大きな問題はインターネットにあると思います。何をどう探し当てたら正解なのか分からなくなっているのです。アバンギャルドシネマ初期の60年代や70年代ではフィルム、のちにビデオに関わっている人を全員知ることが可能でした。「ニューヨークで創られたものは全て見た」と言い切ることは実に簡単で、70年代から80年代にかけて爆発が起きたのです。60年代の終盤にはゲイ・レズビアンシネマ、アジアンアメリカンシネマ、ネイティブアメリカンシネマ、ブラックシネマなどと多種多様な方向性が出てきました。そしてそれぞれのコミュニティに身を置かなければ、各シネマジャンルを制作している人を知ることができませんでした。ですから、1980年に制作されたものを見るためには、各コミュニティの代表者の話を統合する他に方法はなかったのです。これが『Anthology Film Archives』で多ジャンルを紹介するフェスティバルを行った理由です。ゲイ・レズビアン・フェスティバルを開催したのは、そういった形をとらないと何がつくられていたのか見られなかったからです。そのコミュニティにいる当事者たちにキュレーションをしてもらったのです。インターネットの誕生に伴い、逆にどこで何が起きているのかが見えなくなりました。だから本質を捉えるのに、時間がかかるでしょう。ダーウィンの法則のような仕組みがアートに応用されるべきで、それは技術的や話題的な面ではなく、人が何度となく見たくなるような質のある作品こそ生き残る適者生存社会となるのです。世に存在する数え切れない作品はそれぞれ、人種や育った背景によって魅力や受け取り方が変わります。そして彼らは、それらが消えて無くなることを許しません。YouTubeにある映像は時間が経てば消されるとか何とか言っている人たちがいますが、消えない作品は多々あります。そして、いくつかは単純に内容が面白いから残ります。もちろんYouTubeに投稿されている中にも、鳥や動物を撮影したユニークで壮観なものもあります。以前の大きなフィルムカメラでは録画できなかったものが多々あります。アート以外でも残るものはあるのです。文学面でも、時を経て生き残るものには、自伝的なものもあります。最近ギリシャ人のアテナイオスの著書を読みました。通りで見つけたんですよ!紀元前3世紀の料理本です。少し脱線してしまいましたね…。

その見つけ方が1番だと思います。その他に読んでいるものはありますか?

J:最近読んでいるものは昔の作品ばかりです。ヴァージニア・ウルフの『The Lighthouse』を何度も読もうとしているのですが、3回は読み始めています。しかし、『The Waves』は素晴らしかったです。誰もが読むべきだと思います。全く簡単に読める本ではありません。『The Waves』の文章は通常の文法で書かれていないのです。一文一文が3Dなのですよ。そしてもちろん『A Room Of One’s Own』は男女共に全員読むべきです。

『A Dance With Fred Astaire』中のアンナ・カレーニナとのインタビューで、女性解放運動について触れています。ハリウッドの『Time’s Up』運動に繋がった運動でもありますね。これについてはどう思いますか。

J:女性と学生がアメリカを変えるでしょう。もうすぐです。そしてアメリカ以外、アジアなどではすでに始まっているようですね。ここでは簡単ですが、アジア諸国の中には女性が学校を始めるのがすごく難しい国もあります。

ハリウッド作品を観賞することはありますか?

J:『Lady Bird』が一番好きです。ぜひ見てください。すごくシンプルな作品で、幼い女の子の成長を追ったシーンの積み重なりです。私のウェブサイトを見てもらえたら、短いレビューを載せているのが分かると思います。グレタ・ガーウィグが、自身が映像をつくるようになった理由を語ってくれています。心を動かすパーソナルな言葉をいただけて、それも掲載されています。女性にしか、つくることができない映画です。男性では行き届かない描写が多々含まれていて、素晴らしい作品でした。もう一つは『Three Billboards outside ebbing missouri』です。主演女優のフランシス・マクドーマンドの演技が素晴らしいです。そして、内容がすごくタイムリーです。娘がレイプされる話なので。

あなたの本を通して感じるのが、スピリチュアリティです。どうしてそのようになったのですか?

J:自然の中で育ったからだと思います。よく神話などの本を読んでいました。初期のイブン・アラビーなどがその例です。母がとてもスピリチュアルだったので、その影響は大きいと思います。

死後の世界は信じてますか?

J:はい。これがひとつのステージで、この後に次のステージ、そして次のステージへと進むと思っています。全ての哲学者や宗教的な預言者を辿って過去を遡ると、他の次元への突入が理解できます。私たちはその認識をなくしてしまっています。ですから、私はプラトン以前の古い文学に真実を見出しています。むろん産業革命が最大の悲劇であり、全てが物質的になった理由なのは言うまでもないです。仕事、仕事、お金、お金、買う、買う、もっともっと…これが現代です。この状況が自然をないがしろにして、目の前にある世界の事実を無視してしまっています。互いに話すことをせず戦いに専念してしまうのは、スピリチュアルな部分と教育の欠陥です。アートよりスポーツの世界になっています。昔、プラトンはレスラーとしてオリンピックに出場しています。スポーツもありましたが、スピリチュアルな面も強かったということです。現代は肉体に重点を起きすぎていて、内面をないがしろにしています。私は悲観的な人ではありません。この世には人類に貢献している崇高な人たちもたくさんいます。しかし、国を牽引する人たちが物質的なことに執着すると人間は苦しむのです。私たちは今、その期間にいると思います。とはいえ、地球と人類は自らの傷を癒すことができるので、いつかは改善すると思います。時には闇の期間があるのですが、結果として前進はしているはずです。私たちがテクノロジーによって自滅しなければ、いずれ精神的な面を取り戻します。後戻りできるうちに、今すぐにでも取り戻した方がいいとは思いますが。私はあきらめませんが、私たちは危機の中にいることを認識しなければなりません。テクノロジーは精神的、魂的、そして人道的な発達をはるかに超えてしまっています。それは地球や自然に害を及ぼし、表面化しているにも関わらず、私たちは無視し続けているのです。

引退を考えたことはありますか?

J:ないです。引退とはどのようなことなのか、イマイチ理解していないです。仕事をしている理由が金銭的なことであるときのみ、引退する機会があればすると思います。つまらない仕事から逃げたいのです。私の仕事は好きとか嫌いとかいう問題ではなくて、私がやるべきことなのです。私の本質的な部分なのです。その上、私は様々なことをやっています。今、韓国のソウルでショーがあり、今年は『A Dance With Fred Astaire』に加え、2~3冊出版します。『I Had Nowhere To Go』の復刻版も出ますし、『Conversations With Film-Makers』も現状、最終段階に入っています。今のメインのプロジェクトは『Anthology Film Archives』のビルの上に図書館を建てていることです。そして新たにフロアを増やし、カフェを開く予定です。カフェは私たちが生き延びるためのカフェインを摂取する場で、図書館はシネマに関する膨大な量の資料、レファレンス素材、本、定期刊行物、ドキュメント材料、ポスター、そしてオーディオ資料の保管のためです。またそれらは全て封をしてあり、学者や生徒には公開しない予定です。これは1200万ドルのプロジェクトで、現状600万ドルまで集めました。資金稼ぎをあと1年ほどしてから、やっと建設を始められそうです。いずれにしても私が私の仕事を辞めることはありません。鳥が鳴くのをやめられないように、私も辞めることはできないのです。

TEXT AND INTERVIEW BY RUTH SAXELBY
PORTRAIT BY JACQUELINE HARRIET
SPECIAL THANKS JESSE POLLOCK, EMMA PETTIT