DUNE libartane

JACK WALLS INTERVIEW

僕は世間の常識から逸脱したファンタジーの中で生きている

80年代、90年代、2000年代と、ジャック・ウォールズは3世代のニューヨーク・アートシーンを注意深く、そして用心深く見つめてきた。それゆえ、彼が発する1つ1つの言葉には重みがあり、説得力がある。これが、現在第一線で活躍しているアーティストから街で狼藉を極める悪ガキまで多くの若者が彼を先生のように慕い、尊敬している理由なのだと理解出来た。アート、そして、美というものに真摯に向き合い、自身の生き様をぶれることなく突き詰める姿勢には、考えさせられることが多かった。現代のアートの世界において彼のような存在こそが救いであり、未来であって欲しい。

少年期は、どんな環境で育ったのですか?

JACK WALLS(以下J):1957年シカゴ出身。自分が育った環境は今とはまったく違う世界だった。特に、黒人としてあの時代を生きることは尋常ではなかった。自分が10代の時に迎えた60年代は、色んなことが起きていた。暴動、大統領の暗殺、マルコム・Xやキング牧師の暗殺など。ケネディが暗殺された時、社会が正しい方向に向かっていないと悟ったし、それにマルコム・Xとキング牧師はアフリカ系アメリカ人のリーダーだったので、用心深く成り行きをみていたよ。当時自分は子供だったけど、社会や政治で何が起こっていたかは分かっていたし、まわりのキッズも分かっていたよ。とにかく良くないことだらけの時代だったんだ。結局、地元のギャングに加わったんだけど、やっていたことは以前と変わらなかった。ギャングになることは自分に選択権があった訳ではなく、自分の地元では、ごく自然なことだったよ。勿論、自分はメンバーじゃないと言えるけど、実際は組織の一部なんだよ。自分の兄貴が誰かと揉めていたら、それは自分の喧嘩でもあった。勿論、逆も同じさ。都心で生きるっていうことは、戦わなければいけない。親にはいつも「自分自身の力で戦って生きていかないといけない」と言われて育ったんだ。だから俺はいつも相手が仕掛けて来る前に先に手を出す、先手必勝タイプだった。15歳の時には、友達のバスコってやつと、6人組のギャング達からカシミヤのジャケットを盗んだことがあって、そのジャケットを車に結んで笑いながら逃げたよ。そのギャングの中にパンチョーって名前のメキシコ人がいて、そいつが5日後に僕の学校に現れたんだ。僕はその日彼が来るのを知っていて、32口径オートマチックを学校に持っていっていたんだ。「お前はジャケットを盗むのが好きみたいだな」と言われ、殴られた。あいつは空手の使い手で、ヤバい奴だって噂で聞いていたので、銃を抜くしかなかったんだ。そしたら、このメキシコの猫ちゃんはビビって逃げて行ったよ(笑)。僕は殴られて頭からだいぶ血が出ていたから、学校のロッカーの間に隠れようとしたんだ。この目の上の傷が見えるかい?これがその時、殴られた傷だよ。その後逃げた彼は、校門にいつもいる警察に僕が銃を持っていることをチクったんだ。ちょうど授業中だったので廊下には誰もいなかったけど、血痕を残していたから、すぐに捕まってしまった。それで高校を追い出され、少年院に入れられたんだ。

ギャングをやめるきっかけは何だったのですか?

J:成長することを諦めて、何歳になってもギャングのライフスタイルをやめない奴がいるだろ?30歳過ぎてもガキの頃と同じことをやっている奴もいる。僕は17歳の時にギャングを辞めたんだ。みんな、大体その位の年齢の時に初体験を済ませるだろう。その時に、自分がゲイだと気付いたんだ。それでゲイBARなどに遊びに行くようになって、そこで出会ったダンサーやアーティスト等、新しいジャンルの人達を通して、アートに興味が湧いてきて、ギャングから足を洗ったんだ。ギャングの中には勿論ゲイの奴もいたし、それが足を洗った理由ではないよ。ただ問題を起こすことに飽きていたんだ。シカゴの友達や、新しく遊ぶようになった人達を通してニューヨークの人達と知り合い、その後、彼らを訪ねにニューヨークへ遊びに行くようになったんだ。初めてニューヨークに行ったのは1974年で、何度も足を運んだよ。僕は最先端のアートが溢れているニューヨークにいつも憧れていた。彼等が当時住んでいたブルックリンのWilliamsburgにあるRoebling Projectsにはよく行ったよ。でもそんな中、1977年に兄のチャーリーが、ギャングの抗争で殺されたんだ。シカゴで大きな抗争が起こりそうな時だったんだ。刑務所には入りたくなかったし、とにかく事が起きる前に、シカゴから出なければいけなかった。シカゴを出てどうにかニューヨークかロンドンに引っ越そうとしたけど、友達から高校を卒業してないのだから海軍に入った方がいいと言われた。無職で何もしてなかった無一文の自分には、スポンサーも無く、いきなりニューヨークに引っ越して生活するのは無理だと思い、とりあえず海軍に入隊することにしたんだ。シカゴという街を抜け出すには、それしか選択肢が無かったのも事実だけど、昔からJean Genetのホモセクシャルの海軍を題材にした小説を呼んでいたり、実際にシカゴの五大湖周辺の海軍基地で働くゲイの海軍に会ったりしてたから、彼等が海軍になれるなら、自分もなれると以前から思っていたよ。当時僕は良く絵を描いていたんだけど、アーティストになることには全く興味が無かった。絵を描くよりも、不慣れだった文章を書くということに興味があったんだ。挑戦するのが好きなタチでね。だから海軍の船に乗って世界中をまわって、旅のことを執筆したいと考えていた。それが、海軍に入った大きな理由かもしれないな、、、実際、2001年に『Open City』というタイトルで、海軍時代に執筆した本を出版したよ。

実際に海軍時代には、多くの国を訪れることが出来ましたか?

J:航空母艦に乗って香港、韓国、タイ、中国、フィリピン、ハワイなどを見ることが出来たよ。乗っていた船が一度タンカーにぶつかり、修理の為に横須賀の乾ドックにいれ、2ヶ月ぐらい日本にも滞在していたことがあるんだ。1978年のことで、その頃はまだ、“NO DOGS AND NO SAILORS”の看板があったのを良く憶えているよ(笑)。当時は円が凄く強かったし、そんな時代背景だったから、ディスコやその他のこともほとんど基地内で済ませたし、現地の日本人の反発もあって基地から出るのをあまり許されなかったのを憶えてる。考えてみれば、あれ以来一度も日本には行ってないよ。そもそも最初から、海軍に一生を捧げるつもりは無かったから、無断外出を繰り返したし、言うことを聞かないひどい船員だったのは事実だよ。でも、海軍を利用して世界を見ることは出来た。そこには感謝してる。でも僕の人生にとって、海軍の経験は全然重要じゃないよ。ただただ、海軍の生活から抜け出したかった(笑)。そして、1981年にニューヨークに引っ越して、新しい人生を始めたんだ。

好きなアーティスト、また、人生において影響を受けた人はいますか?

J:好きなアーティストはMarcel Duchamp、Joseph Cornell、Joseph Beuys、特にRobert MapplethorpeとPatti Smithからは強い影響を受けたね。Robert Mapplethorpeと初めて会ったのはニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで、彼が34歳で、自分が24歳の時だった。自分はまだ若かったから、彼から色んなことを学んだよ。僕は彼のセンスや審美眼を信じていたし、彼のやること全てにいつも注目して見ていた。ただそのころ、僕はアーティストになることに興味は無かったし、作品自体あまり作っていなかったんだ。何故ならRobertはもう既に完成されたアーティストだったので、世間が僕のことを、彼の成功に乗っかろうとしている、世渡り上手の成り上がりだと思うだろうし、とにかく彼に迷惑を掛けたくなかった。当時2人でそのことを話した時に、彼は「ジャック、もし君がアーティストとして成功すれば、人々は私のおかげだと言うだろう。しかし君がアーティストとして失敗しても私のせいだと言われるだろう。」と言った。だから、僕は彼の活動を手伝い、そして彼自身をサポートしたんだ。当時のアーティストたちは、自分の作品をプロモーションする為に、あらゆるギャラリーに自分のポートフォリオスライドを置いて回ったんだ。僕は、そんな多くの人達が既に積み重ねたスライドの隣に、自分のポートフォリオを置くなんて絶対にしなかった。自分はずっとアーティストになるなんてダサイと思っていたので、アーティストになろうとは思っていなかった。だからこんな遅咲きになってしまったんだけど…ある雑誌の記事で自分がアーティストだと扱われた時に、自分自身がアーティストであることを初めて認めたんだ。何故ならその時まで自分はアーティストでは無く、詩人とも言えなかったし、物書きだと言っていたからね。Robertから教えられたことで今でも自分の実生活に大きく影響を受けているのは、“旅先でいかにお金を稼いで帰ってくるか”という事かな(笑)。Robertは旅行が好きではなかったんだ。僕たちが唯一旅をするのは彼がアートショーをニューヨーク以外で開催する時だけだったんだけど、彼にとっての旅行は普通の人の旅行とは違って、ただ旅先を楽しむだけじゃないんだ。現地でいかに稼いで戻って来れるかが重要なんだ。旅先で金を稼いで帰って来れないなら、始めから旅には出ないんだ。要は普通の旅行には行かないってことさ。だけど旅先のアートショーはいつも楽しかったよ。これは普通の考え方ではないけど、悪い考え方ではないよ。今僕もそれを実践しているからね。毎回ニューヨークの街に行く度に、自分の作品を何点か売ってお金を稼いで帰ってくるんだ。ただ遊ぶためだけに街に行くことはもう無いよ。

世代を超えて若いアーティスト達とも交流を持っていますが、彼らとハングアウトして何を感じますか?

J:僕はRyan McGinleyの20歳上で、Robert Mapplethorpeは僕の10歳上だった。あの頃自分はまだ若かったので色々な体験したけど、今では逆に年長の人として、このシーンにいる。僕はずっと用心深く活動して来て、50歳になってようやく自分のアートを世に出す決心がついたんだ。50歳になってやっと見せるようになったけど、過去の人生を振り返れば、昔から絵を描いていたし、何かしらの作品を作っていた。だから今までアーティストとは公言してこなかったけど、常に自分自身がクリエイティブな存在だとは考えてきたよ。Dan ColenやRyan達はアートの世界に入り、色んな枠組みの中でハッスルしているけど、僕は違うよ。今でもアートの世界や業界とか、正直どうでも良いんだよ。勿論どこかで生活していく方法を見つけないといけないのは充分に分かっているけどね。ただ自分が挑戦するのは、このアート業界でどうやってくだらない政治に関わらずに生き抜いていくかだよ。正直毎晩、どうでも良いギャラリーのオープニングに行って、人にペコペコするのはごめんだね。ただ僕は政治なんて関係ない、純粋なアート人生を送りたかったんだ。正しい方法では無かったけど、DanやRyan達はこのやり方とは、まったく違う特別な方法でこの世界へ入った。彼らは真面目ではなかったけど普通の青年達だったよ。彼らに初めて会った時、DanはRISD大学に通っていたから、彼には唯一アートの希望があった。Ryanはまだ写真を撮っていなかったし、Dashはただの暴れん坊だったよ(笑)。ある日、Dashが写真を使って、切り抜きコラージュを作って来たんだ、本当にひどいもんだったよ(笑)。Dashのコラージュを見てから2年間ぐらいかかったけど、僕のAdaコラージュシリーズ(1982年にROBERT MAPPLETHORPEがジャックの友人だったAda Waddellを撮影したポートレートを使用したコラージュ)を完成させたんだ。Dashにコラージュっていうものはこう作るんだと伝えたかったし、より知性のあるものを作りたかった。Adaコラージュシリーズはこうやって出来たんだ。最初はロバートが自分を撮った写真でもコラージュをしたんだけど、友人だったAdaの写真がこのプロジェクトにはピッタリだったんだ。その後Erik Foss(Fuse Galleryのオーナー)にAdaシリーズを気に入ってもらい、Fuse Galleryで初めてのショーをやったんだ。良い手応えがあったし、とても大きな個展が開催出来たよ。その勢いのまま、2011年にMona Lisaコラージュ・ペインティングシリーズを発表して、Bill PowersのHalf Galleryでも個展を開催したんだ。執筆業においても何かリリースしなくてはと思って、『The Ebony Prick of the White Rose’s Thorn』をHalf Galleryの個展の2年後に完成させたんだ。自分にとっては、1つ1つがとても時間のかかる作業なんだけど、今の若い子達は本当に頭が良いよね。Ryan、DanとDashはお互いを刺激し合い、高め合っていたんだよ。彼らは新しいジェネレーションの切り口で、巨大なアートの世界を変えたんだ。僕はRobert MapplethorpeとRyan McGinleyという、写真の歴史を変えた偉大な2人の写真家と知り合えてとても幸せだよ。いつも自分も頑張らなきゃいけないと思わされるけど、本当にアートの世界が苦手なんだ(笑)。

今現在はニューヨークのアップステートのCherry Valleyへ移り住んで活動していますが、活動拠点を街から田舎に移したのは何故ですか?

J:まだNYに住んでいる時、毎週水曜の夜はBlack and White(ダウンタウンに昔からある、ダイブバー)でパーティーを企画していたんだ。そのパーティーは結構利益をあげていたから3年半ぐらい続けていたんだけど、2003年にニューヨークでは屋内全面禁煙の法律が認可され、バーやレストランはその煽りを食らって以前のような収入が見込めなくなったんだ。タイミング良く,New YorkのアップステートのRoxburyにある友達のギャラリーでショーをやらないかと誘われて、近くにあるCherry Valleyへ立ち寄り、こことの繋がりが出来たんだ。2003年にニューヨークから出なかったら、死んでいたかも知れないよ(笑)。ここCherry Valleyに来てから睡眠パターンは滅茶苦茶だよ。一日中、自由気ままに色んなものを作っている。Cherry Valleyに来なければ、ここ数年で作ってきたものは作れなかったと思う、街では無理だったよ。そういった意味では、Cherry Valleyはもう十分役目を果たしている。だから近いうちに、ここを引き払ってマンハッタンの近くに戻る予定だよ。ただ、唯一この街で気に入ってるのは、僕の住んでるアパートだね。Cherry Valleyは19世紀に起きた南北戦争後に建てられた家が多く並ぶ街なんだけど、僕のアパートはきっと当時、売春宿として建てられた建物なんだ。建物の寿命としてはとっくに過ぎてるから、いつ倒れてもおかしく無いけど、昔ながらの構造や雰囲気がとても気に入ってるんだ。

自身の思う現在のニューヨーク、またはニューヨークのアートシーンについて聞かせてもらえますか?

J:新しくて綺麗な建物が増え、みんな地元の街を追い出されて、プエルトリカンは皆怒っている。チャイナタウンはまだ堪えているから、頑張ってほしいね。人々が言うようにブルックリンがオシャレでヒップな街に変わってから、自分は一度もブルックリンに足を踏み入れてないよ。大体Max Fish Barがブルックリンにオープンしようとしていたんだろ、あれは大きな間違いだね。Max Fishは1988年か89年の開店した頃から行っているけど、その頃はジャンキーしかいなかったんだ。Max Fishは何であんなに電気が明るいか分かるかい?それはジャケットを置いたら直ぐになくなることが多かったからなんだ。本当は店が閉じるのを聞いて、良かったと思っていたよ。まぁ新しい店に行くつもりは無いけど。また最近、街に行った時にBeaconにNYのアートシーンをチェックしたんだけど、今はこのことには、触れない方が身の為だね。Dan,Ryan,Dash、彼らが彼らのやり方で有名になった後に、彼らのやり方を真似して作品を作り、世に出ようとしているアーティスト気取りの輩が沢山いるんだ。そういう奴等とつるむのは最悪だね。彼等は頭が良いのではなく、単にずる賢いだけだよ。決して上品なやり方ではないね。創作に時間を掛けるより、政治に時間を掛ける方が好きらしい。

以前あなたは、Heavy Fantasy Lifeの中に生きていたと仰っていましたが、それは一体どんなものだったのですか?

J:今でもHeavy Fantasy Lifeだよ。僕は世間の常識から逸脱したファンタジーの中で生きている。自分には子供はいないし、今は特別な関係もない。多分、現実を受け入れたく無いからだと思う。Robertとは20代の時に一緒で、その後2人の人と付き合ったけど、その後は誰とも付き合ってないよ。アーティストをしながら子育てしている人も沢山いるけど、ただ僕には出来ないね。他人が思っていることなどは、どうでもいいと思って、僕は自分のやりたいことをして生きている。もし3日間外出したくなったら、フラッと3日間家を留守にするし。人によって人生の意義が違うからね。特に近所の人ともあまり話をしないで、普段はいつも一人で過ごしている。近所の人は僕のことをこの辺りでウロチョロしている黒猫だと思っているよ(笑)。別にうまくやっていく必要もない。それでも僕は幸せだよ。それ以上言うことは無いよ。今の時代は何でも簡単になった。自分次第だけど、テクノロジーが進んでいて何でも出来る。金を稼ぎたかったら、やってくれるし。強盗したかったらそれも可能だし。自分の技術がテクノロジーに追いついていたら、自分のやりたいようにできてしまうんだよ。

最後に、今後のプロジェクトを教えて下さい。

J:最近では、(ロバートが生前、病室で書いてたスケッチから影響を受けている)色鉛筆ドローイングシリーズを制作しているよ。それから、今描いているスケッチは結構大きいサイズのものにしようと思ってる。大きいものを作るには大きいスタジオが必要なので、ニューヨークに戻ることになるだろうね。そして、将来的にはダウンタウンの部屋にマッチする小さくてもインパクトがあって、とても価値のある作品を作っていきたいんだ。ダウンタウンにある誰かのアパートにJack Wallsの作品があるって、街の噂になるような小さな傑作を作りたいね。それとまだプランニング中だが、Ryanの本を書くんだ。Dashの本も近いうちに書くよ。Dashの本の題名は“A Dash of Snow”。それにAdaコラージュシリーズを大型化する予定だよ。時間はかかるけど、絶対に実現させたいね。

TEXT AND INTERVIEW BY MASAKI NAITO, RIBO
PORTRAIT BY AKIMOTO FUKUDA